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詩と歴史書、そして義に生きた黄門様の生涯 「光圀伝 上・下」 著者:冲方丁 〈書評・レビュー・感想〉

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評価:95/100
作品情報
著者 冲方丁
出版日 2012年8月

短評

 
 江戸幕府初代将軍である徳川家康の孫であり、水戸藩の二代目藩主であった徳川光圀みつくにの生涯を描く伝記小説。
 
 明確な話の筋と呼べるものは特になく、光圀の生涯を幼少期から鬼籍に入るまで順に追うことで、なぜ光圀が「大日本史」という後の尊皇論に影響を与える歴史書の作成に着手したのか、そして晩年にとある人物を殺害したのか、その動機に迫っていく。
 
 別段ストーリーらしいものがなく、しかも膨大なページ数のため、同じ作者の『天地明察』と比べ決して読みやすい小説ではない。
 
 しかし、光圀が人生で経験した善行・悪行をありのまま追体験することで、弟想いの優しい兄を差し置いて自身が水戸藩藩主となった不義理に苦しみ続ける光圀の心情に深く共感できる傑作伝記小説に仕上がっている。
 

日本の歴史書作成に携わった光圀自身の歴史を辿る

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 この作品は、徳川御三家の一つ水戸徳川家の血を引く徳川家康の孫であり、水戸藩の二代目藩主であり、そして完成まで約250年の歳月を要した日本の歴史書「大日本史」作成に着手した徳川光圀みつくにの生涯を描いた伝記小説です。
 
 まったく同じ時代である江戸前期を舞台とする『天地明察』でも光圀はサブキャラとして登場しており、こちらでは逆に安井算哲として『天地明察』の主人公も再登場します。それ以外も、歴史上の人物の多くが被って登場するため『天地明察』を先に読んだほうが同じ人物を異なる立場で観察できより楽しめる作りとなっています。
 
 光圀が主役と言えば真っ先に思い浮かぶのが諸国を漫遊して世直しを行う時代劇の『水戸黄門』。しかし、史実を無視して諸国を漫遊する『水戸黄門』とは違い、こちらは基本は史実ベースで、江戸と水戸の周辺くらいしか移動せず、あちこち旅をして回るという描写はありません(せいぜい藩内の民の暮らしを視察して回る程度)。
 
 ただ、『水戸黄門』における旅のお供である助さん格さんのモデルとなった佐々 介三郎さっさ すけさぶろう安積 覚兵衛あさか かくべえはしっかり小説でも登場し『水戸黄門』ファンへのサービスは抜かりありません。あらゆる時代劇の中でも『水戸黄門』が一番好きな自分としては、史実と異なる創作だからといって漫遊記を斬って捨てるような内容ではなく、愛のある扱いで一安心でした。
 
 伝記小説としては、渋川春海の人生をなるべく改暦に絞って語っている『天地明察』とは別物で、こちらは膨大なページ数を割き少年期・青年期を経て大人になり、父から水戸藩主の座を継ぎ、晩年に歴史書の作成に着手するまでの光圀の一生を事細かく追う内容で、受ける印象はまるで異なります
 
 読む前は『天地明察』に似たタイプで「大日本史」という歴史書に焦点を当てた作り方をするのかと思いきや、実際は光圀の人生を追体験することが主眼であり、そこまで歴史書を全面に押し出す内容ではありませんでした。
 
 『天地明察』が渋川春海というあまり有名ではない人物の偉業を紹介するエンタメ性重視の伝記小説なら、この『光圀伝』は水戸の黄門様(黄門は中納言ちゅうなごんの意味)として日本人なら誰もが知る超有名人である光圀に対し漠然と抱くイメージを破壊することを中心としており、この分厚さも見知った光圀像を解体して再構築するのに必要な量だと思います。
 

映画で言うとアポロ11号の船長であり、人類で初めて月面に降り立った世界中誰もが知っている超有名人ニール・アームストロングのイメージを刷新させるために作られている『ファースト・マン』のような感じですね。ちなみにこの分厚い小説を読み終わるまで丸々2週間かかりました。

 
 自分より遙か先を行く才人達に徹底的に自尊心を叩きのめされながら、その挫折から何度も立ち上がりタフな肉体と精神を育んでいくという点は『天地明察』と同様。しかし、一介の囲碁打ちである渋川春海と違い、なんせ徳川御三家の人間という権力の中枢の中枢に位置するため、春海視点では批判的に描かれていた人物に対してもガラッと評価が変わるのも見所です。
 
 山鹿 素行やまが そこうという後の赤穂浪士の討ち入り事件に思想的な影響を与える、古い時代の武士の生き方を美徳とする人物も、『天地明察』では新しい時代に適応出来ない過去に囚われる人間としてどちらかというと否定的に描かれたのに対し、こちらは逆に戦国の世に生まれて天下を取るため暴れ回りたかったのにそれが叶えられない無念を抱く者同士として光圀の良き友であり理解者として登場するなど、同じ時代・同じ場所でも春海と光圀で人物像の捉え方が変わるのは新鮮でした。
 
 『天地明察』も『光圀伝』も戦国の世から天下太平の世に移り変わる過程で、武士が武道や剣術よりむしろ学問を習得し新時代を担う教養人となることの必要性が増し、それにどう適応していくのかという話である点は一緒です。
 
 しかし、それを一介の囲碁棋士の視点で眺め、自身が学問に打ち込む様を中心に描く『天地明察』と、すでに文人として高い評価を得た光圀が今度はどのように学問を一般に普及させるのか藩主という立場で思い悩む視点と、微妙に問題を眺める高度が異なり、両者ともに無類の面白さがあります。
 
 教養ある国家を作るには高い理想を共有できるほどの知性を備えた民が必要で、そのためにはどのように学問を普及させるのかというテーマ性はそのまま現代でも通用し、光圀の学問に対する真摯な考え方は読んでいて得る物が多くありました。
 
 この小説を一読すると光圀に対するイメージが旅の人から学問の人に一新される感動が味わえます。
 

優れた詩人である光圀を詩的な文体で表現する心意気

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 本作で最も印象的なのが同じ時代小説である『天地明察』とは比べものにならないほどの域に達した文体の美しさです。
 
 当時、京の貴族たちからも一目置かれ、日本屈指の詩人として名声を轟かせた徳川光圀の伝記小説とあり、文体へのこだわりは半端ではなく、文人として生きた光圀を文体の面でも表現し切るという気合いが伝わってきます。
 
 文体は、質の良い紙に高級な筆で文字を綴ったようなふわりと舞いそうな柔らかい筆致で、親しみやすさを残しながらもより洗練されました。美事という特徴的な言葉を繰り返し使うことで文章の調子を整えるなど、読んでいて大変に心地良く癖になる文体でした。
 
 これが、父の自分に対する愛情を疑う猜疑心や、自分より優秀で尊敬できる兄を差し置いて水戸藩の藩主の座を継がなくてはならないという針のむしろのような罪悪感を抱え過ごす苦悩の日々をはかなく強調し、詩を書いている時間が最も自由でいられるという光圀の心情に静かに寄り添える一助となっていると思います。
 
 主人公の置かれた環境や精神状態に応じて文体を細かく調整する冲方丁作品の中でも本作は出色の出来映えで、偉大なる文人光圀の人生を追体験するのに文体が足を引っ張ることもなく、安心して文章に酔えました。
 

時代小説であると同時にSFでもあるぶっ飛んだオチ

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 本作は、冒頭で光圀がある人物を殺害するシーンから始まり、なぜこのようなことに至ったのかという謎が解明されていくというミステリーのような形式も取っており、このミステリー部分のオチが完全にSFなので驚きました。
 
 これは歴史的に有名な事件なため事前に光圀の生涯を知っていれば殺害する相手が誰かは分かる程度の内容(本能寺で織田信長を討つのは誰か程度の話)で、本来はミステリーですらないものの、光圀側が相手を殺害する動機の部分が完全な創作になっており、ここは衝撃的です。
 
 光圀には分からなくても、読者には「大日本史」という歴史書が江戸幕府の末期に維新志士たちにどのような影響を与えるのか知っているため、いきなり小説内の人物が読者に向かって直接語りかけてくるようなメタ的な次元に話が飛躍しぶっ飛びました。ある思想が世に蔓延したら世の人間の価値観がどう変容するのかという視点はSFそのもの。
 
 義に生きた光圀の人生の終幕にさらに巨大で暴力的な義を叩き付けられるというオチはさすが一流のSF作家の冲方丁さんらしさが全開で発揮され、普通の時代小説とは異なり、腹にずしんと来る重い読後感でした。
 

主人公だけが誰にも相談できない秘密を背負わされる苦味の強い余韻は『新世界より』とも似ていますね

最後に

 
 三国志で例えると『天地明察』が蜀の劉備視点のような頼れる仲間達と大望を叶えるためひたすら前進し続ける話なら、こちらの『光圀伝』は呉の孫権のような元々権力者の子供として生まれ、保守的な古ダヌキの名士たちと政治的な駆け引きを繰り広げるような内容で、両者ともに異なる方向で甲乙付けがたい魅力があります。
 
 古い光圀像が破壊され、新たな詩人・文人として、詩と学問に生涯を捧げた賢人としての光圀像が生まれる、どこまでも懐が深い傑作伝記小説でした。
 

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