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【小説】満州サバイバル |『朱夏』| 宮尾登美子 | 書評 レビュー 感想

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満洲ドキュメンタリー

評価:100/100
作品情報
著者 宮尾登美子
出版日 1985年

小説の概要

 
この作品は、日中戦争の末期に満蒙まんもう開拓移民の一員として高知県から満州国へと渡り、日本の敗戦後は命からがら大陸から日本へと引き揚げてきた作者の実体験を元に書かれた小説です。
 
土佐開拓団の一員として満州へと渡り、衛生状態が劣悪な環境で風土病に苦しみ、日本の敗戦後は日本人に土地を奪われ怨みを抱く現地の満人や、満州へと侵攻してきたソ連軍、内戦状態の中国国民党軍と中国共産党軍など多数の勢力に命をおびやかされる壮絶な避難生活が描かれ、小説というよりノンフィクションに近い極限のリアリティがあります。
 
満州へ移民した人たちが味わった苦難と、裕福な家庭で育ち世間知らずな主人公・綾子が生死の境を幾度も彷徨い逞しく成長していく様が平行して描かれ、このような壮絶な過去が作家宮尾登美子を育てたのだと分かり、読む前と後で宮尾登美子像が一変しました。
 
小説としては淡々とした作風で、文章の美しさや構成の巧みさはありませんが、満州への移民や引き揚げの際に同じ日本人どころか同じ高知県出身の同郷の者同士でも、いがみ合いや差別、嫌がらせが起こり、人間の陰湿さが剥き出しになる様はまさしく宮尾文学そのものであり紛う事なき大傑作でした。
 

救いのない引き揚げ者同士の反目

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この小説で最もショックを受けたのは、現地の満人やソ連軍、国民党軍や共産党軍に襲われることより、異国で孤立する日本人同士でさえ派閥が生まれ、陰湿な嫌がらせが横行するという残酷な事実でした。
 
自分の勝手な思い込みで敗戦を喫した国の人間同士異国で助け合うのかと思いきやそんな甘いことにはならず、出身地や職業(農民や教師、など)によってグループが作られ、結局そこから弾き出されると陰湿な嫌がらせのターゲットにされるという、なんら実社会と変わらない剥き出しの人間性が垣間見える様に恐怖しました。
 
移民として満州に移り住み、そこで裕福な暮らしを謳歌した移民は貧しい暮らしを送る移民から妬まれ、その嫉妬が避難民として集団生活を始めると陰口として噴出するという、人間はどれほど過酷な環境に置かれても羽振りが良かった人間が落ちぶれる様に強い快感を覚えるという暗い性質を備えていることがよく分かります。
 
自分も同じ敗戦国の人間なのに、戦時中に裕福な暮らしをしていた同族が貧しくなると天罰が下ったと喜び皆で陰口を叩き合う様は、一切の理屈が通じない悪夢のようでした。
 
この小説を読んだことで世界中の難民に対する見方が変わりました。難民は過酷な生活を送り苦労している人たちであると同時に内部にヒエラルキーを持ち、強い者が弱い者を虐げ難民生活のストレスを発散しているのだとすると、あの集団の中にもまた加害者と被害者がいるのだと安易に想像出来るようになります。
 
人間とは周りが敵だらけの過酷な環境に身を置いても身近にいる気に喰わない人間を精神的にいたぶり、自分たちより裕福な者を妬み隙あらば引きずり降ろさないと気が済まない底無しの残酷さを秘めた生き物であるということを教えてくれる貴重な体験談でした。
 

作家・宮尾登美子の誕生

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この小説が他の宮尾作品と決定的に異なるのは、この小説に書かれた満州での体験が宮尾登美子という作家を誕生させるキッカケであり、この壮絶な過去が宮尾文学のルーツであるという確かな感触があることです。
 
当時20歳そこそこの若年の女性だった作者が、殺し合いが身近にある死と隣合わせの恐怖や満人やソ連兵のレイプに怯え、日本人同士の集団生活ではしゅうとめ世代の年配の女性にネチネチと嫌味を言われ、男に何か言うと口答えをする生意気な女と見なされ心ない言葉を浴びせられると、この時のむごい体験が作家・宮尾登美子を形作る大きな要因になったのだと想像できます。
 
宮尾小説はどの作品も濃い死の影が刻印され、どんな時でも人間の醜さ陰湿さから決して目を逸らさず、人の内に潜むどす暗い感情に光を当てることをやめないのは、この時の体験が心の奥底にこびりついているためと合点がいきました。
 
それと同時になぜ自分自身が宮尾文学に強く惹かれるかというと、極限まで死に肉薄したことで濃厚な死の気配が作家性にまで染み込み、それが生より死に惹かれる者を引き寄せるからだということも分かりました。
 
宮尾小説に見られる半ば死を受け入れ諦観したような落ち着きはこの時の経験が元なのだと気付け、より宮尾小説に対する理解も深まります。
 

最後に

 
日々、強姦と虐殺、餓死の恐怖に怯えながら異国の地でプライバシーなど皆無な集団での避難生活を送るという強烈な体験談には心底打ちのめされました。
 
ただ、惜しい点もいくつかあり、他の宮尾作品に比べると文章がやや平凡なことや、主観の強い自伝小説に寄せすぎたため同じく極限の戦争体験を描いた大岡昇平の『野火』のような自身を突き放し客観視したために獲得した哲学的な寓意性のようなものがないことはやや物足りなく感じます。
 
それらを差し引いても宮尾小説の中では『櫂』に次ぐほどの重要作品であり、満州への移民団が味わった苦労を追体験できる資料的な価値すらある貴重な小説です。
 

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