著者 | ストルガツキー兄弟 |
出版日 | ロシア:1972年 日本:1983年 |
評価 | 90/100 |
オススメ度 | ☆☆ |
ページ数 | 約268ページ |
小説の概要
この作品は、異星人が地球に来訪し立ち去った痕跡である“ゾーン”と呼ばれる危険地帯を巡るロシアのSF小説です。タイトルの“ストーカー”とは、ゾーンへ不法に侵入し地球より遙かに進んだ異星文明の遺物を持ち帰る犯罪者(アウトロー)たちのことです。
簡単に言うとトレジャーハンターみたいなものです
名作であるアンドレイ・タルコフスキーの映画『ストーカー』の原作であり、同じく危険地帯ゾーンを探索するゲーム『S.T.A.L.K.E.R.(ストーカー)』シリーズのモチーフとなっている小説でもあります。
その他、映画『アナイアレイション -全滅領域-』など後世の作品に多大な影響を与えています
単純にストーカーたちが人智を超えた危険地帯であるゾーンに侵入し遺物を探すスリル以外にも、異星人たちはなぜ地球に来訪し立ち去ったのかという不可解な行動に対し科学者が仮説を唱えるSFとしての深みや、窒息しそうな田舎の閉塞感と世界に多大な影響を与えるゾーンという相反する設定を並べる奇抜なアイデアなど、半世紀前の小説ながら今読んでもなお新鮮な驚きに満ちた名作でした。
田舎の若者はゾーンに何を望むか
この作品を手に取ったキッカケは、元々この小説を原作とするタルコフスキーの映画『ストーカー』が大好きで、いつか原作も読みたいと思っていたためです。しかし、実際読んでみると自分の想像していた作品のイメージとは大きくかけ離れており困惑しました。
まず、田舎の閉塞感描写がしつこいくらい続き、ゾーンよりストーカーが日常で飲んだくれて愚痴を言っている場面のほうが長く感じるほどです。
さらに、ゾーンへの侵入は最小限しか描かれず、それよりもゾーンの周辺で暮らす者たちの生活感や、いきなり片田舎に異星文明の遺物が残るゾーンが出現したことで田舎に住む者たちにどのような心境の変化や暮らしへの影響があったのかという、どちらかというとSFというより文学っぽい作風で想像とは別物でした。
その中で、最も惹かれた要素は人間とゾーンの曖昧な距離感の描き方でした。この『ストーカー』という小説は、徹頭徹尾、語りの視野が狭く大半は現場の人間の体験談でしかゾーンの様子を知る術がありません。
ゾーンの描かれ方は、ゾーン内に侵入して内部を詳細に描写するのではなくストーカーたちの会話の中でゾーンの中にはこのような遺物があるらしいとか、こんなトラップで死んだストーカーがいるらしいなど、常に情報の断片だけが語られます。異星文明の遺物が登場してもその遺物がどのようなもので、なぜそのような現象が起こるのかなどは一切説明されません。
ベテランのストーカーだけが多くを知っている風なのにそれらの情報は読者には秘匿され、そのベテランのストーカーですらゾーンのトラップやゾーンから発見される遺物に怯える様だけが延々と描かれるため、次第にゾーンに対して畏怖の念のようなものが芽生えてきます。
世界的な科学者が登場してゾーンについての仮説を語る場面もなぜ異星人は地球に来訪しゾーンが残ったのかは一切不明と、結局現場のストーカーも科学者もゾーンに対するまともな仮説を持っておらず、ただただ正体不明の遺物が発見される謎の危険地帯だけがそこにあるという不気味な距離感が生まれています。
この小説全体から漂うジメジメとしたような田舎の閉塞感と、そんな閉塞感を打破し自分に存在意義を与えてくれそうでまったく与えてはくれない未知が眠るゾーン。生計を立てるためには命懸けで不法侵入するしかないゾーンに人生を囚われるも、ゾーンに精通することに密かなプライドも持つ哀れなストーカーたちと、これら一見バラバラな要素が混ざり合い奇妙な文学性を醸成しており、この作品ならではの味わいがあります。
小説と映画版の違い
今回原作小説を読みそのまま映画版も見直しましたが、小説を読んだことで映画で不明だった描写が理解できた箇所が多々ありました。
まず、タルコフスキーの映画のタイトルは『ストーカー』で、日本語版の小説名もこの映画の影響で『ストーカー』となっていますが、元々最初にロシアで小説が発売された際のロシア語タイトルをそのまま訳すと『路傍のピクニック』となります。
なぜタルコフスキーの映画版は『路傍のピクニック』ではなく『ストーカー』なのかというと、この『路傍のピクニック』というタイトルと内容がまったく無関係になっているためです。
原作小説では、異星人が地球へ来訪しゾーンを残してそのまま立ち去ったことに対して、異星人たちはピクニックにやってきただけで、ゾーンから発見される遺物はその時に捨てていったゴミや不要品かもしれないという仮説が語られ、これが小説のタイトルの由来になっています。
この仮説はゾーンのトラップは人間にとっては危険なものでも、異星人からすると単なるピクニック中の虫除け装置みたいなもので、永久に無くならない電池などの遺物もただ単に予備を忘れていっただけではないかなど、色々と空想が広がり非常に好きでした
ただ、タルコフスキーの映画版では、そもそもゾーンに対する説明が省かれ異星人の遺物すら登場しないため路傍のピクニックでは辻褄が合わなくなりストーカーに変更されています。
映画のストーリーは基本オリジナルですが、原作に登場する《願望機》(ストーカーたちは《黄金の玉》と呼ぶ)という、ゾーン内にあるどんな願いでも叶えてくれる遺物を探しに行くという骨格の部分や、主人公のストーカーであるレドリックとその妻、そしてミュータントらしい娘のモンキー(映画では“お猿”というネーミング)と登場人物も何人かは同じなど、共通点も多数あります。
タルコフスキーの映画版はキリスト教的なテーマに全振りしているので、詳しい内容が知りたい場合は映画評論家の町山さんの解説を聴くと理解できます
自分が映画版を見て最も意味が分からなかった点は、ストーカーがゾーンを進む時に包帯を付けたナットを投げながら進むという不可解な行動を取ることでした。
しかし、原作小説を読むとなぜストーカーがゾーン内でナットを投げるのかというと、ゾーン内にある重力凝縮場というハマった生き物を押し潰すトラップを見つけるためという説明があり、この疑問は解消されました。
ゲーム『S.T.A.L.K.E.R. 2』のこのPVが分かりやすいと思います。動画の1分10秒あたりから空間が異常な場所を探すためナット?を投げながら進むという原作小説にある描写が再現されています
その他にも、映画でたびたび映る酒場が原作小説で何度も出てくるボルジチらしいということや、映画内で危険なトラップとして名前だけ登場する《肉挽き器》が具体的にどんなトラップなのかなど、原作では説明があるのに映画では省かれている箇所が多々あり、小説を読むことで遙かに映画への理解が深まりました。
映画では人物の名前が一切登場しませんが、これは原作小説の全てのストーカーや異星文明の遺物がニックネームで呼ばれるという設定を踏襲しており、むしろ原作小説より徹底されており好ましく思えます
そして何よりも、タルコフスキーの映画版は神秘のベールに包まれるゾーンの雰囲気そのものを見事に映像化することに成功しており、タルコフスキーが映像化しなければこれほどまでに後世に影響を与えるような名作には到底なり得なかったと思います。
ハリウッドが映画化していたら刺激的なだけのゴミみたいなエンタメ映画にしかならなかったと思います
何回見直してもタルコフスキーの映像への感性はあらゆる映画監督と比べても突出しており、一切の不要な特殊効果を用いずただただロケーション選びと画面の構図だけで時が止まったような非現実的なゾーンの空気を表現してしまう力量は神がかり的でした。
おわりに
正直、ゾーンに侵入しているよりストーカーが自堕落に飲んだくれている描写や田舎の生活描写のほうが異様に長くそれほど読んでいてストレートに楽しいという類の小説ではありませんでした。
ただ、危険地帯ゾーンと田舎の閉塞感を並べて語るという奇抜なアイデアや、ゾーンやゾーンから発見される異星文明の遺物を最後の最後まで人間にはまるで理解できない未知のモノとして描き切るという距離感の取り方は非常に新鮮で、ただのエンタメ小説とは一線を画する確かな魅力があります。
『ストーカー』に影響を受ける作品は絶対にゾーンの部分だけを抜き取り、田舎の閉塞感を無駄な要素として削ると思います
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