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目覚めても目覚めても夢 『完全なる首長竜の日』 著者:乾緑郎 〈書評・レビュー・感想〉

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映画版トレーラー

評価:80/100
作品情報
著者 乾緑郎
出版日 2011年1月8日

小説の概要

 
 この小説は、センシングという昏睡状態の患者と意思疎通が出来る最新医療技術が開発された世界で、売れっ子少女漫画家の主人公が、謎の自殺未遂で昏睡状態となった弟とセンシングを用いて意思の疎通を図り、自殺未遂の真相を探っていくというサスペンスミステリーです。
 
 ミステリーと言っても謎を解明していくプロセスよりは、センシングを繰り返すことで徐々に現実と夢の境界が溶け区別が付かなくなっていく倒錯感を楽しむ趣向となっています。
 
 人間の無意識が現実に滲み出てくる様を楽しむシュールレアリスムに近い作風なため、オチはあまりスッキリさせず曖昧にぼかすような終わり方で、かなり好き嫌いが別れる作品です。
 

リアルな夢か、夢のようなリアルか

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 この小説は一応ジャンル的にはミステリーですが、読んでいて最も楽しい部分は謎解き部分ではなく、一切の繋ぎ目が分からないまま現実と夢が交互し続ける倒錯感です。
 
 作者である乾緑郎さんは、文体はわりとシンプルながら、登場人物の性格や職業の描き方が非常に細かく、主人公の言動や仕事描写からリアリティを構築していく手腕に長けています
 
 本作で言うと女主人公の、そこそこ売れっ子で漫画家として実力はあるものの、絵は我流で覚えたため画力はイマイチで美大出身の優秀なアシスタントに面倒な作画を全部任せてしまう、やや怠け癖が付いたベテラン少女漫画家という設定に現実味があります。この地に足着いた職業描写のおかげでこの手のジャンルにありがちな、最初から現実認識が危うい感じの主人公とは異なり、この人の見ている光景は確かなものだろうという安定感があります。
 
 しかし、その積み上げられた確かなリアリティがある時いきなり崩れ落ち、実はこれまでの出来事は夢でしたという瞬間が何度も訪れるため、次第に今が現実なのかセンシングしている最中なのか判断が付かなくなりました。
 
 しかも、日常生活とセンシング中の状態、両方のリアリティを完全に均衡させるため、どんなに疑っても実際に現実が崩れるその瞬間までは、それが夢だと見抜く手立てがありません。
 
 この作品は映画版のほうを先に見ていたので、ある程度オチは分かった状態で読んだにも関わらず、現実が突然崩れる瞬間の驚きは映像と文章ではまったく受ける印象が異なり、何の問題もありませんでした。
 
 むしろ映画のほうがセンシングという設定上、昏睡状態の患者とやり取りする場面に映像的な違和感を生じさせる必要があるため、常に何か起こりそうな気配が漂い続け、小説のようなまったく予期しない瞬間に現実が崩れるショックは薄れています。
 

ルネ・マグリット『光の帝国』

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 ストーリーとは直接関係ないですが、夢と現実が混在する作風を象徴させるものとして、ベルギーの画家であるルネ・マグリットの『光の帝国』という絵画が登場するのにハッとさせられました。
 

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ルネ・マグリット『光の帝国』 絵の下半分に夜の闇が沈み、上半分はのどかな昼の青空が浮かぶ、一枚の絵に昼と夜という本来ならあり得ない状態が重なる絵画
 
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 ヘタな人は『不思議の国のアリス』のような漠然とした陳腐な例えを出すのに、この絵画だと夢と現実がそのまま繋がっているという状況の例えが的確な上に、この絵画のコンセプトを知っているとそのまま本作がやろうとしていることも理解できてしまい、一石二鳥で無駄がありません。
 
 このルネ・マグリットの『光の帝国』がモチーフの一つとして登場するおかげで、ラストの曖昧にぼかす幕の閉じ方もむべなるかなと思えます。
 

確かにあの絵も昼が夜の夢を見ている、もしくは夜が昼の夢を見ているようにも捉えられます

原作小説と映画版の違い

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 この作品は、2013年に黒沢清監督の手で『リアル -完全なる首長竜の日-』というタイトルで実写映画化されており、大好きな黒沢清監督作品ということもあり映画版のほうを先に見ました。
 
 正直、黒沢清映画の中では凡作の印象しかなく、原作小説を読んでもう一度見直したらなぜそう感じるのか理由が分かりました。なぜなら、映画版は原作小説にかなり強引なひねりを加えているためです。この映画版で加えたひねり部分が元のストーリーを大きく歪ませており、原作に比べ話に深みがまったくありません。
 

例えるなら、ミステリー小説を映像化する際にネタバレを避けるため、原作小説から真犯人を変えてしまい、トリックや動機が後付け設定で歪んだような感じです

 
 まず原作小説と映画版の一番分かりやすい違いは、原作は姉が自殺未遂した弟を助けるためセンシングするという話が、映画では男主人公が自殺未遂した恋人を助けるという話となり、主人公の性別が男女で引っ繰り返り、しかも取って付けたゴミみたいなラブストーリーになったことです。そのため、原作では姉と弟だった関係性が恋人関係になり、しかも両方とも下の名前が同じなので、若干映画版は気持ち悪くなっています。
 

なぜ弟の名前と彼氏の名前を一緒にするというトンデモな設定にしたのか意味が分かりません。このせいで小説版の後に映画版を見ると姉と弟で付き合っているように見えてしまいます

 
 さらに、作風の大きな違いは、原作では幻覚なんて見なさそうな極めて安定した人の現実がある時突然崩れるというショックがあったのに対し、映画版はいかにも幻覚を見そうなヘナヘナした主人公になったこと。もしかしたらここが原作と映画版から受ける印象の最大の違いかもしれません。
 
 それに、原作は主人公が封印していたとある記憶を思い出すと、誰もが嫌悪感を抱くある人物に対する印象が180度変わるという非常にうまい仕掛けがあったのに、映画版は性別が変わったこともありこの部分が完全に消失しています。
 

ここは完全にKeyのアドベンチャーゲームの『CLANNAD(クラナド)』ですね

 
 原作小説で一番良かったと思うメッセージはコレだったので、改めて映画版を見直すとそこが完全に抜け落ちておりガッカリさせられます。
 
 自分が最初に映画版を見た時にピンとこなかったのは、まさにこれらの映像化するにあたり無茶苦茶に歪めた部分で、原作小説を読んだことでなぜ映画版がダメなのか理由がハッキリ分かりました。ただ、これは映像ベースで考えると仕方がない部分もあります。原作のまま映像化するとあまりに首長竜がストーリーに関係なさすぎて絵面が地味なため、どうしても首長竜の役割を増やしたかったのかなと多少理解は出来ます。
 
 それでも、そこらのヘボ映画監督とは格が違う、映像作家として一流の黒沢清監督が手掛けているため、映画版もセンシングを映像でどう表現するかきちんと工夫が凝らされており、映像を楽しむ分には十分な完成度には仕上がっています。
 
 ただ、ストーリーは言い訳できないくらい改悪されており、映画版だけ見て『完全なる首長竜の日』という作品の良さを理解することは不可能です。
 

最後に

 
 センシングによって何が現実で何が夢か次第に分からなくなっていくというありきたりなアイデア自体はそこそこ面白い程度でした。
 
 ただ、登場人物ほぼ全員に弱みや罪の意識を持たせ人間味を出すキャラクター造形の巧みさや、一見ただの極悪人なのにある時その人の良心の呵責がうっすら見え、根っからの悪人ではないということを理解させる技量など、『機巧のイヴ』シリーズで心奪われた作家性はすでにデビューから二作目の本作の時点で完成されており、改めて乾緑郎という作家の凄みを思い知らされました。
 

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