評価:55/100
公開日 | 2007年12月22日 |
上映時間 | 133分 |
映画の概要
この作品は、古本屋“京極堂”の店主であり陰陽師でもある京極堂こと中禅寺秋彦 が探偵役となり難事件を解決する百鬼夜行シリーズの2作目『魍魎の匣』を原作とする映画版です。
ただ、完膚無きまでに原作の優れた点を殺し尽くしてまで映画『第三の男』へのオマージュに走っており、原作小説とは完全な別物になっています。
登場人物は人格改変され別人へと変わり果て、原作の持つ幻想文学のような雰囲気は徹底して殺され跡形もありません。
原作小説よりも映画『第三の男』が好きな監督により、原作の内容が上書きされてしまった散々な出来でした。
特撮から映画になった百鬼夜行シリーズ
この映画は原作小説と本筋や設定はほぼ同じですが、細部が致命的なまでに別物なので印象としては原作とは似ても似つきません。
一つ前の『姑獲鳥 の夏』の映画版は、実相寺昭雄という『ウルトラマン』シリーズなどに携わる完全に特撮畑の人が撮っているせいで映像が映画というより特撮でしたたが、それに比べ今作は分かりやすく普通の映画です。
セットを組んでこぢんまりしていた前作に比べ、わざわざ戦後の日本の景色に近付けるため中国ロケまで敢行しており、風景は比べものにならないほど豪華でした。
しかし、『姑獲鳥の夏』が原作に忠実だったのに対し、こちらはなぜか第二次世界大戦の混乱が戦後に影を落とすという映画『第三の男』のオマージュのような作りとなっており、原作小説とはほとんど別物です。
『第三の男』もフィルムノワール映画としては大傑作だと思いますが、なぜ『魍魎の匣』の映画版でそれを見せられるのかは意味がまったく分かりません。
ラストの長いトンネルを延々歩き続けるシーンは『第三の男』の下水道シーンを見ていないと意図が分からないと思います
もはや魍魎の話でも、匣を巡る怪奇譚でも、憑き物落としの話ですらなくなったゴミストーリー
この実写映画版は、映画『第三の男』へのオマージュに振り切っているため、核となる大筋の展開だけ似せて、それ以外の細部は大幅に改竄されており、ハッキリ言ってストーリーは原作とは別物です。
まず、見始めてこれはダメだと思ったのが登場人物の人格改変の酷さです。いつも陰気で神経症を患っているような作家の関口がなぜか陽気で終始ペラペラ喋り続けるせいで、この人が不条理小説を書く作家だという説得力が皆無で、別人にしか見えません。
それに原作では刑事の木場が非常に重要な役として立ち回るのに、それが探偵の榎木津 に変更され、なのにも関わらず木場刑事の本作のヒロインへのナイーブな片思いの感情だけは残されているとか、中途半端に設定が残っていたり改変されたりと、見ていてイライラします。
木場刑事役が雨上がり決死隊の宮迫さんで榎木津 役が阿部寛さんなので、ストーリー上の要請と言うよりは、役者の格として悪ノリでキャスティングされているお笑い芸人よりも華のある阿部寛さんを主役にしないと映画として成立しないという事情はなんとなく理解できます(最初から重要な役にお笑い芸人をキャスティングしなければいいだけの話)。
このため、原作ではメインストーリーにまったく関係していない阿部寛さん演じる榎木津 を無理矢理主役級の扱いにしなければならず、話はデタラメでほとんど破綻しています。
原作をなぞっている部分も、ある人の一生を狂わすほどのあり得ない摩訶不思議な物を目撃するという体験が、遊んでいる最中に箱の中の死体を見てしまったという陳腐な体験に置き換えられており、元の鮮烈なイメージを劣化させているだけで見るも無惨でした。
そして、この映画版で最も不快だったのが、憑き物落としの話です。
百鬼夜行シリーズは加害者にも被害者としての側面があり、京極堂が陰陽師として憑き物落としをすることで事件関係者全員の憑き物を落とし、穏やかな精神を取り戻すという内容なのに、映画版に至ってはこの部分が完全に抜け落ちており、本当にこの映画を作っている人たちは原作を理解しているのか疑問です。
そのせいで話に何の深みもなく、登場人物への印象も何一つ変化せず、心に響くものがありませんでした。
この映画版のイメージは歴史的な名画を素人が修復しようとしてラクガキみたいな無残な絵になってしまった感覚に近く、完璧で美しい原作小説の内容をこねくり回して破壊しただけで原作より優れている箇所は一箇所たりとも見当たりません。
『第三の男』がルネッサンス映画なら、こちらは鳩時計映画ですね
最後に
原作の肝を理解していないどころか、『魍魎の匣』ではなく『第三の男』を作りたかった人たちの戯 れに付き合わされるのみで、見るだけ時間の無駄でした。
原作小説
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