著者 | 宮尾登美子 |
出版日 | 1981年6月1日 |
評価 | 100/100 |
オススメ度 | ☆☆☆ |
ページ数 | 約378ページ |
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小説の概要
この小説は、貴重な香木を焚 きその香りを聞く(鑑賞する)、日本の伝統的な遊芸“香道 ”に魅せられた一人の女性の生涯を描く純文学です。
明治から昭和にかけ、三重県の薪炭 商を営む本庄家・本家の一人娘“本庄葵”が、実家の莫大な財力を頼りに滅びかけた香道を復興するため半生を捧げるというストーリーです。
ただ、香道を題材としてはいるものの、香道についての小説ではなく、あくまで宮尾文学らしいおぞましい人間の業に迫る話であり、香道はあくまでオマケのような扱いです。
宮尾小説の中では特異な構成で、約360ページほどの長篇小説ながら、前振りが300ページ以上続き、ラスト数十ページに全てのメッセージが凝縮されているという、最後まで読むことで初めて作品の意図が分かる大胆な作りとなっています。
最後の最後で、高貴な者たちの遊びである香道の光と闇を暴くと同時に、読者がずっと主人公の生き方に抱いていた違和感や偏見を回収し、それを鏡に映すように突きつけてくる展開は宮尾小説の中でも群を抜いて衝撃的でした。
かぐや姫が暮らす月の世界に憧れ続けた者の末路
この小説は宮尾文学を読み慣れていればいるほど序盤から終盤まで違和感の塊 です。
裕福な家に生まれ実家からの援助で何一つ不自由せず贅沢三昧の生活を謳歌する、どちらかというと好意より嫌悪が先に立つような主人公の話が延々と続き「なぜ宮尾登美子さんはこんな小説を書いたのだろう?」とずっと困惑し続けました。
他の宮尾作品だと、例えば篤姫 やクレオパトラのような、徳川の家を守るため命懸けで時代に抗う話や、エジプトの女王として国を背負う者の責任と自身の幸せの間を揺れ動くといった、一見贅沢な暮らしぶりながら、その裏には常に人を束ねる長としての苦悩があるというワケでもなく、どうしてもこの葵という主人公は終始他人の財力に頼るだけで人間性が薄っぺらく見えてしまいます。
一応は、ぽつぽつと家族の不幸に見舞われ苦しみはするものの、終始自分の実家を炭焼きで生計を立てる卑しい職業と見下し、それにも関わらず経済的な援助はしっかり受け最後の最後まで何一つ不自由しない贅沢な暮らしぶりが描かれるだけで、読んでいて一つもピンときませんでした。
宮尾小説でここまで主人公と読者の距離が開いたまま溝が埋まらない作品も珍しく、自分が読んだ中では『東福門院和子の涙』など、主人公の心情をあえて描かないといった特殊な作品くらいしか思い浮かびません。
しかし、この奇妙な距離感の意味がラスト数十ページで判明すると、作品そのものへの印象が劇的に変わります。これまでのあらゆる違和感や不満が完璧に回収され、自分が葵という人に抱いていた嫌悪は最初から全て計算されていたものだと分かると、その微塵の隙もない構成力に心底ゾクゾクしました。
「ただの金持ちのお嬢様なだけ」、「実家の莫大な財力を頼りにお金を湯水の如く道楽に使って、いけ好かないし腹が立つ」、「香道なんてただの貴族の真似事の遊び」という、自分がこの小説に対して抱いていた不満がそのまま刃となり、物語の終盤に主人公の心をズタズタに引き裂くという展開は、宮尾文学を読んでいて初めての経験でした。
他の宮尾作品が分かりやすく幸薄い人生を送る主人公を応援するような話なのに対し、この小説は身分違いの世界に憧れ、身分を乗り越えようとひたすら努力する者がバカにされる話であり、しかも読者は主人公を応援するのではなく積極的にバカにする側に回されることで加害者の気分になるというアイデアは秀逸でした。
上流階級の者たちは自分たちのいる上層に昇ってこようとする下流の人間を見下し、下流の人間は必死で上級階級の仲間に入ろうと足掻く者を夢見がちな愚か者となじり、その両方の態度をラストに重ね合わせることで両者の醜さは同質であるという鋭いメッセージを突きつけてくるこの小説は、他の宮尾作品と比べても異彩を放っています。
加えて、天上の香りに導かれ幻の幸福を追い求めてしまうという教訓は、SNSでありもしない幸せを必死にアピールし合う現代社会にこそ響く物語であり、宮尾文学の中でも特に時代を超える普遍的なメッセージが刻まれた作品だと思います。
滅びの作家・宮尾登美子が香道を描くと・・・
この小説は、主人公の女性が滅びかけた日本の伝統的な芸道を復興させようとする話でいうと『一絃の琴』と似ています。
ただ、『一絃の琴』がまだ一弦琴という楽器の魅力を伝えようとしていたのに比べると、この『伽羅の香』に至っては読むとむしろ香道に嫌悪を抱きます。
芸道を通して描こうとしていることは『一絃の琴』とほぼ同じです。芸というものと真摯に向き合い芸の神髄を極めようとする尊い心は滅び、権威のある伝統的な芸道を利用して自身の名を上げようとする者が生き残るという、いかにも滅びゆくものにこそ想いを託す宮尾文学らしさが共通しています。
『一絃の琴』と『伽羅の香』の二作品を読むと、やはり宮尾登美子さんは一弦琴や香道という文化の魅力を紹介しようという気はあまり無く、どうしても伝統芸能というものをある種の権威や箔 だと考え、己が有名になるための道具やビジネスに利用する者と、真に心を慰めるために芸を欲する者の対立構図のようになり、あまり題材そのものに良い印象を持ちません。
日本の伝統芸能を利用して小説を書くことで結局伝統という権威にすがる者と同じになりたくないという宮尾さんの意地なのか、結局題材となる対象の陽の部分に留まらずどうしても陰の部分まで引きずり出してしまうため、伝統芸能のプロモーションに没するなどということもなく、あくまで主役は人間の醜さを追求する宮尾文学という姿勢を貫き通せています。
結局、伝統芸能と宮尾文学だと宮尾さんの強烈な作家性のほうが軽々と勝るので、最終的には伝統芸能のほうが人間の業を増幅させるオマケと化してしまい、読み終えると香道を紹介する小説というよりあくまで宮尾文学を読んだという感触が残るのは『一絃の琴』と同様でした。
最後に
宮尾作品の中ではかなり変則的な小説なので、正直終盤まではただの失敗作だと思っていたらラストで全て引っ繰り返されるので「さすが、宮尾登美子だ!!」と、あまりの巧みな構成力に畏怖の念すら覚えました。
単純な小説としての面白さで言うと最初から最後までずっと面白さが持続する『一絃の琴』のほうが上ですが、小説としてどちらがインパクトがあるかというと、自分自身の裕福な家に生まれた者への知らず知らずの嫉妬や妬みを突きつけられ、ハッと我に返る『伽羅の香』です。
小説の中で、自分の醜さと対面させられるという貴重な体験は他の宮尾作品では味わえないため、それだけでもこの小説を読む価値がありました。
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