著者 | 光瀬龍 |
出版日 | 1967年 |
評価 | 120/100 |
オススメ度 | ☆☆☆ |
ページ数 | 約463ページ |
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小説の概要
この小説は、ギリシャの哲学者プラトンや仏教の開祖である仏陀 、インド神話の神である阿修羅 王、イエス・キリストの奇跡を目撃するローマ帝国のエルサレム総督やイスカリオテのユダと、歴史上・神話上の人物の視点を借りながら、遠い未来に訪れる、この世が誕生した時から世界そのものに仕組まれていた滅亡の謎に追っていく壮大なSF叙事詩です。
ソクラテスの弟子である哲学者プラトンが提唱した現実とは別に存在する、完全なる真理の世界“イデア界”。仏教の教えに登場する“彼岸”というこの世界とは異なる生死を超越した境地。そして、キリスト教にある“最後の審判”といった、様々な哲学や宗教に度々登場するこの世とは異なる世界やこの世の外側にいる何者かを暗示させる言葉、世界がいつか終わりを迎えるという未来の滅亡を示す不吉な予言の数々。
それらが実はこの世界が誕生する以前から、ある超越的な存在の手によってこっそり人類の歴史に仕組まれていた巧妙な作為であったら…という、非常にスケールの大きな物語となっています。
ギリシャ哲学・バラモン教・仏教・キリスト教・量子論と、哲学・宗教・科学を軽やかに横断しながら、宇宙的スケールの未知なる謎へ踏み込んでいく、人間が持つ想像力の限界を覗き見るようなSF小説でした。
銀河の終焉に立ち会う途方もないスケールと、それを支える一読しただけでは到底理解できない膨大な情報量、叙事詩に情緒 を加える滅びゆく世界を詩的に見守る光瀬龍の恐るべき文才と、あらゆる成分が渾然一体となる、SF小説と詩の可能性にただただ戦慄させられた神作です!!
始まりと終わり、そして永遠の物語
この小説はページ数だけならごくごく控え目です。しかし、作者が人生で学んだ知識・見識・宗教観・思想・哲学・SFというジャンルの限界へ挑戦する意欲と、作家の一生の経験そのものが作品に刻み付けられているため、目に見えない厚みを感じます。
想像を絶するスケールの物語を成立させるのに、単に勢いに任せ突っ走るようなことはせず、ベテラン作家の熟練した技を駆使し、確かな知性の裏打ちをする手腕はまさしく神業 と呼べるほどでした。
この小説は、読んでいて普段は眠っているだけの脳の一部に負荷がかかることで強制的に想像力のリミッターを外され、見たことがないはずの宇宙の果てを幻視するかのような体験ができ、まさにSFでしか経験できない貴重なものだと思います。
哲学の原理への飽くなき探求心だけでも、宗教の神仏への切実なる祈りだけでも、科学の冷静な観察と実験だけでも到達不可能な、SFという全てを疑い全てを受け入れる柔軟な姿勢でないと辿り着けない光景を拝ませてくれる、まさにセンス・オブ・ワンダーの塊の作品でした。
この小説を読み、改めてSFというジャンルの深淵の一端に触れられたような気がします。
死にゆく世界が託す遺言
物語のスケール意外に、この小説で心惹かれるものは滅びゆく世界を形作る儚 い詩で編 まれた文章です。
生命が死滅した世界で空にたなびくオーロラが発する命の残滓のような哀しい色あいが、かつて存在した高度な文明の死を内包する廃墟が、虚数空間で目撃する触れることができない幻影都市の虚しさが、銀河の終焉を見守るあらゆる感情が没する無我の境地が、光瀬龍の文才により突き付けられる読書体験は恍惚の極みでした。
絵や映像という外部からもたらされる単一の刺激ではなく、詩によって内側から際限なく溢れ出すイメージの奔流と戯 れる喜びは小説でしか味わえない贅沢です。
生命の始まりと終わり、物語の始点と終点が詩により永遠なる輪を結ぶ構造の美しさ相まって、読み終えた後はただただ感嘆のため息が洩れるばかりで、完膚無きまでに詩の力の偉大さに屈服させられました。
1960年代の小説とは思えない奇抜なセンス
本作は、元が雑誌のS-Fマガジンに連載され、それが単行本として発売されたのが1967年と、半世紀以上昔の作品なため小説のところどころに現代では古すぎて引っかかる設定や呼称が散見されます。
途中、何の事前説明もないままロートダインという言葉が当たり前のように登場し、何のことかさっぱり分からずwikipediaを見たら昔の垂直離着陸型のヘリコプターで、VTOL 機の代名詞的な使い方をしているんだなと気付くなど、あまり馴染みのない用語に戸惑うことが多々ありました。
ガトリングガンをバルカンと言ったり、対戦車ロケット砲をバズーカと言ったり、無限軌道をキャタピラーと言ったり、四輪駆動車をジープと言う、元の呼称と製品名がごっちゃになっているパターンですね
ただ、設定や用語の古めかしさよりは、この時代にこれほどまでの作品を書き上げた衝撃のほうが遙かに勝り、大してマイナスには感じませんでした。
1967年という時代を鑑みた場合何よりも印象的なのがインド神話の悪神である阿修羅 王がなぜか美少女で戦闘用サイボーグに改造されているいう突飛な設定です。
人類がほぼ死滅した世界に、インド神話の神が美少女サイボーグとして登場し、銀河の終焉に立ち会いながら永遠の如き時の流れの無情さに想いを馳せるという諸々のコントラストが強烈で、作品内のどの要素が欠けたとしてもこの絶大なインパクトは出せなかったと思います。
手塚治虫の『火の鳥』は1954年連載開始、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』は1964年連載開始、永井豪のマンガ版『デビルマン』と楳図かずおの『漂流教室』は1972年から連載開始と、70年代前後くらいの日本のクリエーターは発想力や目の付け所がどうかしていますね
原作小説とマンガ版との比較
小説を読み終えた後に『ポーの一族』で有名な萩尾望都さんが描いたマンガ版も読みましたが、原作小説とはかなり作風が異なりました。
原作小説にあった、壮大なスケールの物語に相応しい宇宙と天地が創造される過程を追体験する冒頭の場面はカットされ、諸行無常や色即是空という仏教的な宗教観が深く心に沁み入るようなラストの余韻もほぼ無くなりました。
その代わり徹底的にストーリーを絵で説明することに徹しているため、読みやすさ・分かりやすさはマンガ版のほうが断然上でした。
マンガ版は少年誌掲載作品らしく、原作の不明瞭な箇所を補強するような工夫が随所に施され、話の繋がりが飛び飛びに感じる部分には補足エピソードを挟み前後の辻褄合わせを徹底し、活字だけだと状況を把握しづらい場面に懇切ていねいな説明を加えていたりと、原作小説をより深く理解する手助けになります。
しかし少年マンガ的な、読みやすく、かつ無慈悲な運命へ反逆するような力強い作風に寄ったため、原作小説には濃厚にあったかつては繁栄を極めたハイテク都市のなれの果てを巡る暗く退廃的なムードや、突如暗闇に放り込まれるような不安と孤独に苛まれる終末世界の絶望感はごっそり削られ、次から次にサスペンス展開が連続する冒険マンガのようなテイストが強くなり、作風から受ける感触は別物です。
ただ、原作小説もマンガ版も両方とも作者の教養レベルが極めて高く拮抗しており、それぞれ別の天才が創造した作品として楽しめるため、原作とムードが違うからといって特にマイナスとも思いませんでした。
優れたマンガ版と比較したことで、原作小説を読んだ際はストーリーの面白さが魅力の大半を占めていると思っていたら、ストーリーよりも光瀬龍の無常感を醸す美しすぎる神文体が心に突き刺さっていたことに気付くことが出来、大変有意義な体験でした。
最後に
自分が創作物に求める、心が締め付けられるような詩情や退廃的な美、形而上的な問い、カタルシス、美少女サイボーグと全ての要素を完璧に満たし切った一冊で、これ以上は何もいりません。
静寂なる死の世界に取り残され、孤独に銀河の終焉を見守る諸行無常な余韻を残す奇跡の作品であり、これまで出会ったあらゆる小説の中でも本作が最も好きな一冊になりました。
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