トレーラー
評価:120/100
公開日(日本) | 2021年10月15日 |
上映時間 | 155分 |
映画の概要
この作品は、フランク・ハーバートのSF小説『デューン 砂の惑星』を原作とする映画です。
全宇宙で唯一、抗老化作用を持ち人間の意識を拡張させる貴重な香料“メランジ”が採取できる砂の惑星アラキス(デューン)を舞台に、宇宙を統べる帝国に仕えし大領家(貴族)であるアトレイデス家とハルコンネン家の権力闘争、そしてアトレイデス公爵の息子ポール・アトレイデスが過酷な試練を乗り越え人間を超越した存在に覚醒していく壮大なSF叙事詩です。
映画版は原作小説(日本語版)の上・中・下の中巻の真ん中までの内容で前編に過ぎず、この映画単体だけで『デューン』は完結しません。
映画は原作小説の丁度折り返し地点あたりで終わります。そのため前・後編の前編のみといった感じです
しかも原作小説から理解に支障をきたすほど大幅に設定やストーリーの説明が省かれており、決してストーリーを目当てに見るような作品ではありません。あくまでSF映画として斬新なデザインや最先端の映像を体験するための作品です。
一本の映画としては監督ドゥニ・ヴィルヌーヴの過去作の中ではダントツの最高傑作であり、過去のあらゆるSF映画を凌駕する域に達したこれぞ映画のデザイン・映像の革命という紛 う事なき大傑作でした。
間違いなく現行世界最高の映像を味わえます
映像磨きに余念のない傑作
『デューン』という作品は遙か昔に出来損ないの失敗作であるデヴィッド・リンチの映画版を見たのみで、原作小説に関する知識はほぼゼロでした。
しかし、このドゥニ・ヴィルヌーヴの映画版は『デューン』という原作の映像化としても、単体の映画としても想像を絶するほどの高みに達しており、急いで原作小説を読破しました。
この映画を最初に見た際は、デヴィッド・リンチ版の記憶など彼方へと消え去った後で、原作もまるで知らないためストーリーも登場人物の会話も固有名詞も何一つ理解できないまま単に気品のある映像美に圧倒されるのみでした。その後、原作小説を読み再び見直すとこの作品が完璧な映像化であることが肌で分かり印象が一変。
Blu-rayのメイキングを見ると、ドゥニ・ヴィルヌーヴはフランク・ハーバートが原作小説に込めた緻密なディテールを映像で再現することこそが原作へのリスペクトといった発言をしており、まさにこの説明を捨ててでもデザインや映像への偏執的なこだわりを貫くスタンスこそがこの映画を他の映画など圧倒する特別な一本にしている要因だと思います。
原作小説は、宇宙で唯一の貴重な香料“メランジ”が採取できる砂の惑星アラキスを、生態学・砂漠の民の宗教観・砂漠の生活に特化したテクノロジー群に至るまで狂気のディテールで描写し尽くすことで作品に命を宿すことに成功していました。
映画版は、この原作の神経質を通り越して異常と思えるような膨大な設定へのこだわりを映像、特にデザイン面で再現しています。
映画の最初から最後まで画面内にこの世界に存在すべきでない異物が映り込む隙を与えず、ほんの少し登場するだけの小道具一つのデザインに至るまで創意が行き渡っており、安心してこの映画に身も心も委ねることができます。
メイキングで、美術は未来的になりすぎず、しかも一端作ったものをもう一度古めかしく見せるため再度手直しで加工していると説明されており、その結果デザインから『デューン』の世界に堆積 した目に見えない歴史すら香り出し、他の映画とは映像からもたらされる感触が別格でした。
しかも、デザインだけが突出して優れているのではなく、原作小説を読むと脚本も映画用に細部を徹底してブラッシュアップし尽くしており、その点も感動します。
特に冒頭レトとポールが皇帝の移封 (国替え)の命令でアトレイデス家の母星であるカラダンを去る前に先祖の墓を訪れる場面は、アトレイデス家がカラダンの地に刻んできた歴史の重みと、一族の祖先が眠る故郷を離れる哀愁を絵的に表現出来ており、この原作にない墓参りの場面を入れた判断は完璧でした。
映画全体を通して、画面に何をどう映すのか、誰をどう行動させるのかという選択に一切の狂いがなく全てが完璧な計算のもとで設計されており、原作を読むとその設計図の美しさがより一層深く理解でき映画への評価が跳ね上がります。
それ以外も、皇帝の親衛隊であるサーダカーの部隊が浮遊装置で音もなく垂直に降下してくる斬新な映像や、原作の安易なコミカルさを排して不気味な存在としてキャラクター造形や一つ一つの挙動まで再設計されているハルコンネン男爵の佇まい、シールドの見せ方やサウンドデザインなど、褒め出すとキリがないほど全画面がこだわりの塊であり、これを完璧と言わず何を完璧と言えばいいのか分からないほど完璧でした。
逆にこの映画を見ると『ブレードランナー2049』が明らかに手抜きなのが分かり、その点に関しては若干ヴィルヌーヴに怒りを覚えます
さらに、この映画は宇宙を描くSFなためCGが多用されているのにも関わらず、なるべく役者が手で触れるような物は実写ベースで作ることで可能な限り画面のCG比率を下げる工夫もあり、実写とCGの境界が極めて自然で、この点もそこの配慮が足りない過去のSFとは異なり次世代の映画を見ているという気分にさせてくれます。
CGではなくアナログっぽさが印象的と言うと、映画で目を奪われるのはローブなど役者の身に纏う衣装が大きくなびくことで目に見えない風の動きを意識させられることや、アナログな人体浮遊など、どこかアンドレイ・タルコフスキー映画を彷彿とさせる要素が多く、これも本作の映像が格調高く感じる要因の一つだと思います。
『惑星ソラリス』の海の美しさを砂漠に置き換えているとも取れます
原作小説との比較
この映画は原作から理解に必要な説明の多くが省かれており、この映画単体で『デューン』のストーリーを理解するのは不可能です。
例えば、過去に思考機械との戦争がありその戒めのためこの世界は高度な機械文明が発達せず、人間の肉体や精神の拡張に重きを置く価値観を持っていることや、シールドは速い攻撃は防ぐが遅い攻撃は貫通するためシールド格闘術ではトドメを刺す瞬間に攻撃をスローにする必要があること(この説明が映画ではたった一瞬のみ)、全宇宙に影響力を持つ教育機関であるベネ・ゲセリットは自分たちの組織に都合のいい宗教をあちこちの惑星に浸透させる工作を密かに行っていることなど、説明が大幅に省略されており事前に原作小説を読んでいないと映画内の登場人物たちの言動がさっぱり読み取れません。
初めてこの映画を見た際はセリフの意味が何一つ分かりませんでしたが、原作小説を読むとほぼ完璧に理解できます
原作小説との細かい差異は、原作は過去・現在・未来を見通すことが可能なポールの視点のように未来に書かれた書物からアラキスで起こった大規模な争いを振り返るというやや回想的な作りなのに対し映画は時系列に沿っていること、リエト・カインズが原作では男なのにこの映画ではなぜか女になっていること、前述したハルコンネン男爵がコミカルでマヌケなキャラから不気味で腹が読めない人物に変更されていること、そしてハルコンネン男爵の甥であるラッバーンの存在感が大幅に増し、逆に原作では重要なハルコンネン男爵の後継者であるフェイド=ラウサがまったく登場しないこと、などです。
この中で一番気になったのはフェイド=ラウサが影も形もないことです。一応原作ではハルコンネン男爵の後継者であるフェイド=ラウサは主人公ポールの最大のライバルのような存在なので、その人が映画に一切登場しないことが不可解でなりません。
ただ、本来なら敵役はハルコンネン男爵が一人いれば済む話なので物語上絶対に必要というほどでもありません
その他にも、原作はポールの話というよりは群像劇に近い作りのため、視点が様々な勢力や立場の人間へ移り続けるのに対し、映画はほぼポールの視点で一貫しており、このためポールの主人公としての存在感が際立つ反面、他の人物は大幅に陰が薄まるという弊害も出ています。
例えば、帝国のお目付け役であるリエト・カインズが最初はレト・アトレイデス公爵を信用していなかったのに、香料を採取するクローラーがサンドワームに襲われる際、レトがクローラーの香料より人命救助を優先し、その姿勢に胸を打たれアトレイデス家を信用するという流れも映画では本当に数秒だけ映るリエト・カインズのリアクションから読み解かなければならず、こんなものを映画だけ見て分かれといっても不可能だと思います。
この映画は完全に原作小説を読んでいる前提で作られており、心ゆくまで演出を読み解きたい場合は原作小説を読むのは必須です。
だからこそ映画を見て急いで原作小説を読破したんですけどね
最後に
SF小説の歴史に燦然と輝く伝説の作品を、原作への全身全霊のリスペクトを込めパーフェクトな手腕で映像化して見せた大傑作でした。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はこの『デューン』を作るために生まれてきたと言っても過言ではないほどで、過去のSF映画が辿り着けなかった新たな地平を垣間見せてくれたその才能に感謝しかありません。
出来れば『ブレードランナー』にも同等のリスペクトがあれば文句ありませんでした
原作小説
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