評価:85/100
公開日(日本) | 2020年7月31日 |
上映時間 | 111分 |
映画の概要
この作品は、クトゥルフ神話の生みの親でお馴染みの、H・P・ラヴクラフトの小説『宇宙からの色』(ラヴクラフト全集の4巻に収録)を映画化したものです。
原作は長編ではなく極めてページ数の少ない短篇小説で、謎の隕石がもたらす宇宙の色の脅威によって幸せな家族が崩壊していく様が描かれます。
原作小説から、ガードナー家に降ってきた謎の隕石によって悲劇が始まる点や、宇宙の色や汚染された水が一家の人間を狂わせていくといった点など、大まかな基本設定は引き継がれています。しかし、それ以外の部分はほぼ映画オリジナルなため、原作と映画版だと受ける印象は別物です。
宇宙から飛来した未知の色が人を狂わせていくという困難な設定を、洗練されたカラーデザインで見事に映像化し切った、文句なしの傑作でした。
原作と映画版との違い
原作と映画版には多数の違いがあり、その中でも大きな相違は、視点がほぼガードナー家に限定されたことと、ガードナー家に降ってきた隕石に関する説明部分が全部カットされていることです。
原作では、ガードナー家に起こった惨劇は約40年前と遙か昔の出来事で、その事件の断片を知る目撃者に話を聞くことで、惨劇を回想するという体 で語られます。しかし、映画版は現在進行形でガードナー家の視点から事件を体験していく形に改められました。これはすでに惨劇が起こった過去を振り返るより現在の出来事として見せるほうが恐怖が身近となるため妥当な変更だと思います。
原作小説が回想だった面影は映画のラストにほんのり残っています
次に、原作ではかなりのページ数が割かれる、隕石に関する説明が映画版ではほぼ全てカットされていることです。これは説明に頼らず、映像のみで未知の色を描き切ろうとする作り手の思惑が読み取れる変更点でした。
原作(日本語訳)では“描写するのが不可能な色”とか“奇怪な色”とか“不思議な色”といった具体性のない漠然とした色の説明しかなく、どちらかというと隕石の成分に関する説明が主で、肝心な宇宙の色は読者の想像に委ねられるのみで物足りません。この、隕石の説明部分をバッサリ削り落とすことで、原作が優先した設定の怖さより、狂った色彩による視覚的な恐怖の方向に振り切っている映画版は非常に適切な判断だと思います。
それ以外も原作には一切存在しないコミカルさ(アルパカやスラムダンク、など)が足されていたり、原作では息子が三人だったものが映画版では姉と弟二人に変更されていたり、事件の目撃者と語り部が別々だったものを映画版では一人の水文学者に統一していたりと、細かい違いは数多くあります。
中には原作からそのまま引き継ぐ必要があったのか疑問に感じる設定もありますが、概ね説明を省き映像で語るという姿勢は一貫しており、映画化は大成功していると思います。
極上のカラーデザイン
原作との違いについて長々と説明しましたが、本作の重要な箇所はそんなことではなく、洗練され尽くしたカラーデザインの美しさです。映画を見ている最中は、画面の色味に違和感を覚える場面がほぼ皆無でした。
宇宙からもたらされる未知の色はこんなものを長時間浴びたら人は狂うだろうという色の害の説得力が抜群で、過剰な美しさが逆に不気味な植物の色も徐々に日常が非日常に呑み込まれる倒錯感を生むのに一役買いと、色のこだわりは細部まで行き届き、色だけで感情も設定も全てを表現しきるという気迫が感じ取れます。
さり気ない部分では、ラヴィニアが台所の片付けをする際に警告を意味するかのように黄色の手袋をはめる絵面のセンスの良さとか、単純に懐中電灯のブルーの光がカッコ良いとか、映画全体の色の調和が見事としかいいようがありません。
懐中電灯がブルーという件と関係するのが、ブルーとパープルの色の対比構造です。自分は3回見直してようやく気付けましたが、この映画は地球(水)の色であるブルーと、宇宙の色であるパープル?の対比が基調となっています。冒頭は青い服を着たワードと、紫のエクステ?のラヴィニアが出会うという場面から始まり、ラストはブルーの回転灯と、宇宙の色であるパープルが狂宴するようなど派手な色彩となるなど、カラーデザインで地球と宇宙が遭遇する物語を語るという大胆な試みに驚かされました。
この映画は、場面場面に登場する色が物語的にどんな意味合いを持つのか考えるのが楽しく、ついつい何度も見返してしまいます。
最後に
この映画はテンポがかなりスローなので初回時は退屈に感じますが、慣れると特に気にならなくなります。ここは同じくニコラス・ケイジ主演の『マンディ 地獄のロードウォリアー』と同様でした。
正直、ラヴクラフトが好きかどうかよりは『マンディ 地獄のロードウォリアー』の色彩感覚が肌に合うかどうかのほうが重要だと思います。
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