トレーラー
評価:90/100
放送期間(アメリカ) | 2013年4月~6月 |
話数 | 全13話 |
国 | アメリカ |
ネットワーク | NBC |
ドラマの概要
この作品は、トマス・ハリスの小説を原作とするTVドラマ『ハンニバル』シリーズのシーズン1です。
グロテスクな要素多めのサイコスリラー(後半はサイコホラー)で、映像や演技を堪能するタイプのドラマとなっています。
イギリスのドラマである『刑事ジョン・ルーサー』に影響を受けているのか、一話から最終話までが綿密に計算された伏線だらけでラストまで見通して初めて作品の意図が理解できるという構造です。
サイコパスの狂気を視覚化させる耽美に徹した映像美
このドラマの目玉は何と言っても贅沢な映像美です。
常人よりも想像力と共感力が秀でているせいで、不幸にもサイコパスの殺人美学を理解し、精神が不安定となっていくFBIのプロファイラーであるウィル・グレアム(ヒュー・ダンシー)。
観察力と分析力に優れた精神科医でありながら、冷徹なサイコパスという二面性を隠し持つハンニバル・レクター博士(マッツ・ミケルセン)。
本作の映像から受ける感触は、まるでこの二人の精神世界の色彩をそのままパレットに絞り出し混ぜ合わせたかのようです。
レクター博士を思わせる、徹底して管理された美術、衣装、色味の調整、構図選びによって作り出された温かみを排し、偶然性など入り込む隙間の無い硬質で人工的な冷たい画面設計。
そして、時折見せるウィルの脆い精神と、自我の崩壊めいた記憶の欠損を表現するかのようなジャンプカット気味の暴力的にすら感じられる編集。
この二つの組み合わせは、絶対の監視者であるレクター博士と、精神が常にグラグラガタガタの不安定な弱々しい監視対象であるウィルとの関係性が映像表現そのものに宿っているようで、ゾクゾクします。
ウィルとレクター博士以外の役者のキャスティングや配し方も隙が無く、誰と誰が画面に映っても何の違和感もありません。
殺人鬼がアーティストとして、殺人がアートとして描かれるという内容も、美術と撮影に支えられ十全に表現されており、ウィルが非凡ゆえの想像力で殺人鬼に共感してしまうという危うさの説得力が半端ではありません。
本作はド直球で「これからヘンテコな死体が画面に映ります」と律義に予告して心構えをさせてから、コチラの想像の上を行く代物を見せてきます。
そのため、目の前で門外不出の美術品に掛けられた布が今まさに取り払われるようなスリルがあり、ついつい映像に見入ってしまいます。
人間の自我の崩壊に巻き込まれる恐怖
このドラマは、終盤にサイコホラーとしては最上級の恐怖が待ち受けています。
象徴的なのは一話目。
ウィルとレクター博士が対面しながら食事するシーンなのに、二人を同一の画面内に映さず、あえてカメラの切り返しで会話させるという、映画ではよくある心が通い合っていない者同士の対話シーンの演出だと思って油断していると・・・突然次のカットでカメラが引いた絵となり、二人が同一カット内に納まっていて、ドキッとさせられる瞬間です。
本来演出的に起こらないはずのことが起こってしまうこのシーンの印象が不吉さとしてずっと頭にこびりつき離れなくなります。
物語が終わりに近づくにつれ、ウィルが殺人鬼に共感し、殺人鬼の意識から抜け出せなくなるように、今度はコチラ側がウィルの意識に囚われ抜け出せなくなり、一緒に脆くも崩れ去る自我に巻き込まれるかのような錯覚に陥いり恐怖を感じました。
劇中展開される、精神科医や行動科学の専門家達の意味が二重三重にオブラートに包まれる高度な会話劇のように、映像表現も非常に複雑怪奇な様相を呈し、時には見る者を観察者とさせることで安心させたり、時には客観的に観察していたと思っていたら実は観察対象にされていたりと、映像そのものが牙を剥いてくる瞬間があり、見ていて心が休まる瞬間がありません。
このような、作品そのものが時にはレクター博士であり、時にはウィルにもなるこの構造は悪夢的であると同時に甘い毒のようでもあり、心底魅了されます。
最後に
レクター博士役のマッツ・ミケルセンが完璧なハマり役なことはじめ、映像の美しさもサイコスリラーとしてのシナリオの完成度も申し分ない傑作でした。
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